落陽の砦の歴史 †
- 場所は輝きの市場の商人のアイコンとほぼ同位置。
積み重ねてある箱の上。
書物。
カージャの軍用文字が刻まれた厚手の記録書。~
落陽の砦の歴史
天照イリヴとその一行が西方に消え去った後、天照バサディードは王国の最遠に強大な要塞を建設させた。天照様は古の遺跡を礎に選んだ。
古の民がその地を拓いたのは要衝ゆえのことだろうとのお達しだった。
その古の民による滑らかすぎる灰色の石と奇妙に彫られた鉄は、崩され、もしくは埋め立てられ、そして地下は封印された。
何らかの儀式に使われていたかもしれない石の輪だけは、駐留する兵の練兵場として残された。
建てた職人も当てがわれた兵も、太陽が夜に沈む地を恐れて暮らしたものの、完成した要塞の城壁は強固で、揺らぐことはなかった。
天照様と大祭司である不動のパシャマンは、灼熱の太陽が見守る中で要塞を落陽の砦と名付けた。
天照バサディードの慎重さを疑う者も、兄君がいつの日か再び姿を見せるのではないかという王の僅かな希望を否定する者もいなかったが、王の存命中に西から大きな脅威は現れず、以後三世代に渡っても現れることはなかった。
落陽の砦の兵が鉄錆びの地に潜む山賊や盗掘屋としばしば戦った記録と、不毛の荒野でのベヒーモスの大暴走に見舞われた記録があるくらいだ。
時代と共に落陽の砦は人々の記憶から薄れていったものの、
第11代サン王の在位6年目にて、天照マルジード御自身が視察に参られた。
天照様は砂漠の熱気の中で精巧なる宮殿の姿を目にしたという。
その宮殿の丸い天蓋は磨き抜かれており、夜明けには太陽を迎え、夕暮れには太陽の最後の輝きを捉えるものだったという。
王は直ちに民に命じ、宮殿を完成させるよう尽力させた。
宮殿が完成すると天照様は貴族や職人、臣下の多くを連れ、そこを夏の宮殿として使用した。
やがて落陽の砦そのものが街の様相を呈し、「砂丘を歩くトールネックの情熱」「煌めきの青銅峰の季節の移り変わり」「シナバー砂漠を嘆いて」などの傑作が生まれる土壌となった。
石造りの練兵場は用途が祭典での見世物の舞台に変わり、紋章もちの若人や狩人の館のタカたちが、機械に対する太陽の優位を見せつける場となった。
落陽の砦を愛するサン王マルジードが宮殿内で早逝するまで、何年にも渡って王国の文化で重要な役割を担い続けた。
メサの導きへと戻る葬列の際は、朝も夜も光の中でお送りできるよう、朝焼けの大湖の全長に渡ってたいまつが並べられた。
亡くなられた王の弟君、天照ヒヴァスは王国の軍を一新することに執心されたが、老いたサン王の崩御により落陽の砦の歴史も次の章へと進んだのであった。
第13代サン王ジランの治世の初めの頃、その影が堕する前に、囁きの谷がとりわけ厳しい天候に襲われた。
嵐が鎧の装飾すらも引き剥がすと聞き、王は精鋭たちを砂漠のその地で鍛え、ハヤブサと呼ぶよう命じた。
いずれ最も悪名高いハヤブサとなるヘリスも、太陽と砂による再錬を生き延びた最初の数名の一人であった。
サン王ジランの治世15年目にて、太陽の広場での生け贄が機械の大厄災を収めるためには不十分とのお達しにより、落陽の砦での血染めの儀を王自ら執り行われた。
捕らえたベヒーモスを槍で追いたて、オセラムとウタルの奴隷にけしかけられたのだった。
機械がハヤブサたちに牙を向けると、サン王は立ち上がり、寛大なる太陽は信仰なき者も、分け隔てなく生け贄として受け入れると宣言した。
落陽の砦はこれ以後、太陽の広場で絶え間なく生け贄が捧げられる恐ろしき時代に入り、宮殿は光の輝かざる場所としてささやかれることになる。
そして王国の誠実なる臣民の多くが王門の中へと連れ去られ、禁じられた西部に旅したかのごとく行方をくらました。
サン王ジランの治世の晩年には、落陽の砦は王のハヤブサと大祭司が支配し、王国全体からは遠い存在となっていた。
そのため、メリディアンの解放後、ジランに忠実な者たちが落陽の砦に逃げ延びたのは半ば当然のことだった。
要塞としては難攻不落でありながら、肥沃な地からは朝焼けの大湖によって隔絶されてしまったため、街としては貧窮に身を落とすことになった。
こうして、第14代サン王アヴァードの治世1年目にて、睨み合いの構図ができあがり、落陽の砦は存続したのだった。
かつては西の影から王国を守るために築かれたこの砦も、今やさらなる影を宿してしまったのだ。そこに巣食う偽りのカージャという影を。
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